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片平たてもの通信 第6號 |
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片平歴史物語 第七回
【三十三間堂】 |
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貞享2年(1685)4代藩主綱村は日企(へき)流雪荷(せっか)派の遠矢平塚重次を指南役に召抱え、袋町角の田村屋敷跡に三十三間堂と称する遠矢の道場を設置した。よって袋町を三十三間堂横丁というようになった。重次は加賀の人で紀州徳川家の指南役落合宗親の高弟である。仙台藩では新たに仕官する際、改名する慣例で、重次は清兵衛を改めて籾右衛門と改めた。 モミは白米に挽かねば食えないことを弓をひくにかけた洒落で、初めて綱村に対面した時、図星をさされたという。三十三間堂は鎌倉時代の建長3年(1251)に建てられた京都東山の蓮華王院本堂で正面の柱間が三十三間あるところから来た俗称である。この1間は6尺1間の意味ではなく柱と柱の間をいう建築用語で、蓮華王院の柱間は実尺にして12尺であるから長さを測る間数では六十六間(117メートル)になる。 この堂の廻り掾(えん)の背面廊下で遠矢を射ることが室町末期から江戸時代にかけて流行した。これをまねて六十六間を廊下だけの片ひさしに造り、これを折懸(おりかけ)堂形とも単に堂形とも称した。稽古人は弓組足軽から選抜した。この遠矢は宵の口からかがり火を焚き徹夜で数千本の矢数を1人で射るのである。 重次の記録は1万2千本、内当たり矢7770本とある。袋町の三十三間堂は宝永4年(1707)2月 20日、支倉通北三番角から出火して南小泉まで1558戸を焼土と化した大火に類焼し、正徳4年(1 714)に花壇の川原に再建されたが文化9年(1812)の洪水で流失、同11年米ケ袋広丁の宮城工業高の地に再興した。 3ヶ所ともみな川縁であったのは逸れ矢の危険を防止し広瀬川に落ちるようにするためであった。それもおびただしい矢をみすみす流失するのはもったいないので下流の浅瀬にヤナをかけて拾い上げるようになっていた。米ケ袋鹿子清水通り南側、故本多光太郎宅の裏から少し上流に浅瀬があって、そこが矢を拾い上げたヤナ場で、昔から矢込の瀬と称した。 |
《参考文献》 |
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