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片平たてもの通信 第8號 |
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片平歴史物語 第六回
【藩政時代まで続いた五軒の侍屋敷】 |
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藩政時代290余年の間、一度も移動しなかった侍屋敷が片平丁には5軒ある。涌谷伊達氏、亘理伊達氏(西公園付近)、松山茂庭氏、岩出山伊達氏、それと角田石川氏で、当時は何か過失があれば重くて家禄没収、軽くてもいやおうなしに屋敷換えが行われる定めであったから、この5軒はめでたい屋敷であった。 石川氏の邸宅地は片平丁に正門を構え金研横丁を折り回して本多記念館横の伊勢屋横丁まで打ち通しの大屋敷。其の中に金研、地質岩石教室があったのであるから相当に大きな屋敷である。この石川氏は「お客大名」と呼ばれ、もとは福島県石川郡泉郷の豪族で、戦国時代伊達氏の敵である仙道七蒋の一人であり、近世石川氏の初代昭光は正宗の祖父晴宗の4男で、正宗の叔父にあたり伊達家の客分として一門筆頭となった。 三代目宗敬(むねのり)は名君で夫人は正宗の次女牟宇(むう)姫で、江戸初期には仙台藩でも藩主の子息を嫁にもらうと赤門を建てねばならぬ慣習があって、川内のスポーツセンターの所にあった一門、登米伊達氏と石川氏と仙台には赤門が二ヶ所あった。石川氏の家臣の数は侍440人、足軽747人、小人11人、陪臣40人の合わせて1238人であった。仙台藩も幕府にならって参勤交代の制であったから大半は角田におり、仙台勤番の者だけ片平丁の仙台屋敷に詰めていた。 金研横丁をへだてた元理学部の所は、正宗の四男宗泰を初代とする岩出山伊達家の屋敷で、維新直後、主君邦直は家臣一統を率いて北海道に渡り、あらゆる辛苦に耐えて石狩当別の開墾に成功した。これに取材したのが本庄陸男の小説「石狩川」で、大友柳太郎を主演として「大地の侍」と題する映画にもなった。 岩出山伊達氏は代々弾正という通称を襲名することになっていたところから、北側の横丁を弾正横丁というようになった。この町名は藩の役人が命名したものではない。いつ誰と言うことなしに出来た、いわば民衆が命名したものだ。だから明治になって石川の屋敷跡に監獄が出来ると監獄横丁になり、それがとり払われて本多さんの世界的な金研に生まれ変わると金研横丁。町名は市民のものであるから、これでいいのだ。市役所などが押し付けるものではない。 |
| 仙台市 柴 修也 |
《参考文献》 |
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