片平たてもの通信 第7號

片平歴史物語 第五回  【鷹匠と餌指(えさし)】

 東北大正門の坂は、藩政時代には御鍛冶屋前丁と称した。これは現在の裁判所官舎の所に藩の鍛冶工場があって、抱えの鍛冶職人の集団居住地だったからである。
 ここから南へ鹿子清水の入り口までは低地になっていて、餌指(えさし)と称する仙台藩最下級家臣団が住んでいた。藩主の鷹狩用のタカは、米ケ袋の上丁と中ノ坂通十字路西南角に40間四方の鷹部屋が置かれ、上丁は残らず鷹匠屋敷で、それらの組侍がタカを飼育していた。タカの餌は訓練上生きている小鳥で、現在の宮城県工業高校向かいに小鳥を飼って置く鳥部屋があった。
 餌指達は、毎日モッチ(鳥モチのこと)竿を肩に網袋を腰に小鳥を獲って歩くのが任務で、一組35名、3組編成で一組は片平丁西側、他の2組は土樋に置かれていた。向かい側は重臣で50間の間口というのに餌指は間口7間奥行25間、片平丁の街路と直角に短冊割の構えであった。
 給与は向かい側は何万石、何千石の知行に対して、彼らのサラリーは年額にして二切(ふたきれ)三人扶持(ぶち)だった。二切は小判一両の半分で金二分のこと、仙台藩の一人扶持は年二石の玄米で、三人扶持で六石となる。これが先祖代々世襲で、給与の昇給は絶対にない。
 そこで餌指達は、内職に家族あげてさまざまな家内工業をやり、生活の足しにした。彼らは、殿様の道楽のタカのおかげで飯を食っている奇妙な家来であった。
 5代将軍綱吉が第一子徳丸を失ったとき、側近の知足院なる僧の「上様は戌(いぬ)年生れゆえ犬を大事にすれば世継ぎも生まれるし長生きもできる」という言葉を信じて、貞享4年(1687)「生類憐みの令」を布いた。しまいには生類の範囲が拡大して、諸大名に鷹狩を禁じてしまった。
 仙台藩でも鷹部屋を閉鎖したので彼らは失業ということになったが、鷹匠は間もなく近習鉄砲組に取り立てられほっとしたのに対して餌指には何の沙汰も無く、たまりかねて綱村に直訴した結果、槍同心に編成替えとなった。但し首謀者は犠牲となって死刑に処せられた。彼らは小鳥を狙うために平常風傳流と称する短槍を稽古していた。戦いともなれば、小鳥よりも目標の大きい人間相手だけに槍同心は的を射ており、藩の家老達もうまいことを考えついたものであった。
 昔の片平丁はこのように格式と貧富の差が甚だしい町であった。

※鷹匠=藩主の鷹を預かって養育し、鷹狩の仕事に従事した人々、合戦の際には謀報探索などにあたる家臣団

仙台市 柴 修也
《参考文献》
仙台藩歴史用語辞典 仙台郷土研究会 昭和60年刊
「広瀬川の歴史と伝説」 三原良吉   昭和54年刊

たてもの通信 目次に戻る