片平たてもの通信 第6號

片平歴史物語 第四回  【仙台藩牢屋】

 寛文6年(1666年)藩の牢屋が、花壇から片平丁の現在の片平コミニテイセンターの地、同じ頃刑場も評定河原から米ケ袋の縛り地蔵の近くの河原に移された。コミニセンターの所は広瀬川の崖を背に牢屋にあつらい向きの地形で、現在のセンターいり口の小さな坂は往年の牢屋の出入り口である。
 侍の囚人を収容する建物を揚り屋といい、其の他は小説や講談で知られる江戸小伝馬町の牢屋にならって東の大牢、西の大牢、女老、無宿者を収容する六間牢、百姓を収容する前牢、兇暴な囚人を収容する三尺牢があり、構内四箇所に見張り番所があった。川辺は棚貫とからたちを植えつけ、他は板塀を巡らしたものである。  
 西南隅の崖上に切腹・打ち首の刑を執行する士分の刑場があった。伊達騒動の際忠臣伊東七十郎が伊達兵部を憎んで暗殺を企てて発覚、片平の牢に収容され、この場所で打ち首となった。
 この片平は、士分以外の者が七北田刑場に送られる磔、獄門の死刑囚ガ見せしめのため市中を引き回しになる振り出しの丁場であった。先頭左右に血なまぐさい槍を肩にした二人の突き手、死刑囚を後ろ手に縛って裸馬に乗せ、罪付けと称する判決文をしたため高札を持つ者が一人、これを役人が宰領する凄惨な行列が毎月のように片平から北目町に向かって行進していった。
 刑の執行は歴代藩主の命日とか神事の日には行われなかった。江戸中期以降は月3回程度で、一回に3,4人から多いときは20人近くの死刑囚が片平から七北田へ引かれて行った。それも羊の歩みならともかく、馬上から陰惨な目つきで往来の人々をジロジロと睨んだりするのはまだいい方で、沿道の家々に「やえやえ、今夜化けて行くぞ」などと喚くのが常だから引かれ者の通る時刻には、往来の店の大戸を下ろすことになっていた。 
 天保7年仙台領内だけでも30万人の死者を出した大飢饉で犯罪も激増して首切り役の同心も多忙をきわめた。同12月強盗で8人が打ち首になったが、天保飢饉録によると引き回しの途中,大きな声で「しんぼするより盗みをさんせ、首のないのもいきなもん、アーコリャコリャ」と都都逸(どどいつ)を歌って行ったというのであって、引かれ者の小唄という例えを地でいったのである。
仙台市 柴 修也
《参考文献》
「北根村今昔記」 三原良吉
昭和36年3月3日 河北新報記事
「広瀬川の歴史と伝説」 三原良吉   昭和54年

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