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片平たてもの通信 第4號 |
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片平歴史物語 第一回
【仙台開府のころの片平丁】 |
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政宗の都市計画は、仙台城を中心として、片平丁には重臣屋敷を配し、東と北の番丁を平士(将校)屋敷、その外側を組士(下士官)屋敷、城下周辺の足軽の集団を配したものだった。芭蕉の辻を中心とする大手筋と、城下を南北に横断する奥州街道を町人町とし、寺社門前にも町人町を置き、侍の住宅を丁、足軽と町人の住居地を町と称して区別していた。 仙台城にとって広瀬川は外敵に対する天然の外濠をなす重要な防御線であり、戦時下においては、城郭地帯を戦争の混乱から守るための城下との仕切りの役目も果たしていた。川の左岸に沿う片平丁一帯に重臣邸宅を配置したのは、戦時下への備えのためであった。 仙台開府当時の片平丁は、南は六軒丁、北は支倉北一番丁突き当たりまでの長い町で、藩政初期のころは今の家庭裁判所南側崖沿いに裁判所官舎の裏から、西公園裏へ更に市民会館裏の崖ばたをとおり、支倉通りまでの約2キロの間。脚下の広瀬川をへだてて青葉山と対するすばらしい景観の町であった。 この川に面する道路沿いに政宗は松と桜を交互に植えて並木道とした。政宗の豪華な桃山精神の現われである。当時はこれを片平丁のナン松(並み松)と称した。明治11年に宮城県令となった松平正直はこれを「ゆく末の長江にたてる並松はあまた千歳をよするなりけり」と詠じた。明治の末ころまでは元常盤丁裏に大木の老松が5、6本残っていた。現在の片平キャンパス内に松の木が多く見られるのも当時の名残かと思われる。 政宗は都市計画上で、最初から道幅を広くとっており、そのため仙台開府当時の片平丁は別名を大広丁(おおひろちょう)とも呼ばれていた。これは、有事の際に沿道の重臣たちが自邸の前に軍勢を横隊に整列させ、政宗公が馬上から閲兵した後、そのまま縦隊となって目的の戦場に発進させるためである。藩政時代には、この町を片平丁と呼ばず大名小路(だいみょうこうじ)とも称した。これは江戸城丸ノ内の大名小路のなぞらえたものであろうが、伊達騒動当時、この町には2人の大名が屋敷を構えていた。ともに藩命により亀千代の後見役として藩政を代行した伊達兵部と田村左京である。 兵部は政宗の十男で当時一ノ関3石、屋敷は片平丁の北の基点、支倉通北一番町突き当たりにあった。左京は2代藩主忠宗の三男で当時岩沼三万石の大名、仙台屋敷は現在の、放送大学宮城学習センター付近の袋町角にあった。 この時代、寛文九年(1669)城下絵図を見ると約2キロの間に、間口五十間の屋敷の数は30軒、この家臣たちの知行合計高は約26万石(中クラスの大名の禄高)。秋田の佐竹氏、盛岡の南部氏はともに20万石なので、片平丁一ヶ町の重臣の知行総高は両藩を上回り、いかに政宗が片平丁の重臣を配置していたかを、石高で知ることができる。 |
| 仙台市 柴 修也 |
《参考文献》「広瀬川の歴史と伝説」昭和54年 三原良吉著 |
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