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片平たてもの通信 第4號 |
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【 片平たてもの物語 《4》 】 |
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―旧東北帝国大学理学部化学教室― |
「片平たてもの通信」創刊号巻頭と應援團團歌CDジャケットに同じ建物の写真が使われているのにお気付きであろうか。今回はこの“絵になる”建物が主役である。東北帝国大学理学部化学教室として使われていたこの建物は当初、北門入って右手の位置に計画されてた。ところが、大正11年に、現存する旧工学部金属工学科教室がこの場所へ建設されることになり、金属材料研究所の隣(現在の北門食堂の位置)あるいは片平丁グラウンド(現在の片平市民センターの位置。ここで化学教室の学生達はよく野球をやったという)のどちらかを予定地とすることになった。 しかし、結局そのどちらでもなく現在の位置に決まったのは、大正15年に正門から通ずる道路に面した凹字形の建物を想定して、その一端になるように分析化学実験室が、金属工学科教室の南側並びに建設開始されたからである。 この先行して建てられた分析化学実験室は、昭和2年度より使用が開始され理学部と工学部の各一年生が2階と3階で実験を行っていた。構造は鉄筋コンクリート3階建で、1階の窓の下まで石が使われ、外壁には褐色のスクラッチタイルが貼られており、金属工学科教室とデザインの統一が図られている。 その当時の出入口は北端に設けられていて、現在でも扉上部の金属製の飾りや庇の持ち送りに扇形の装飾を見ることができる。 その後、昭和7年に分析化学実験室の南西に2階建の臨時図書室が増築され、翌年には西側に増築する形でいよいよ化学教室本館の建設が開始されている。(大学本部の前からこの建物の曲面を描いた角を眺めると、右側と左側のデザインが異なるのがわかる。また裏側に廻ると壁の色の違いに気付く)。 建設当時は昭和2年の金融恐慌に端を発した不況のさなかで、満州事変や5・15事件など軍部の台頭で政情も不安定であった。その為、60万円で提出した建設費の予算が文部省で30万円に削られ、大蔵省を通過した時には大学本部の移転費用も含めて20万円にまで削られた。* これで当初凹字形を想定した建物の一端が削られ、規模が大幅に縮小してしまった。 ちょうど営繕課長の転任と重なり、新しい課長が原案に手を入れて、分析化学実験室との調和も考慮して設計し直したという。こうした困難な状況下にもかかわらず、当時日本一といわれた大玄関を持つ堂々たる建物を完成させるまでには、工事関係者の並々ならぬ努力があったに違いない。
化学教室本館は鉄筋コンクリート3階建、外壁は褐色のスクラッチタイル貼りで、一見したところ分析化学実験室とよく似ている。しかし、立ち上がりに石は使われておらず、地面から軒まで一面にタイルが貼られている為、柱の垂直性が強まっている。また、柱型をずらりと並べたことにより、外壁の彫りが深くなり、水平方向へのリズムも生まれた。さらに西端の塔においてガラス越しに見える階段と、スリットが軒に遮られることなく空にまで突き抜けていることにより、威圧的になりがちな建物全体の印象を、明るくモダンにすることに成功している。一方、玄関内部の大空間は構造をむき出しにしたコンクリートの太い柱と梁が木造社寺建築の架構を想わせ、当時の日本的な伝統への回帰に向かった時代の雰囲気が伝わって来る。 この建物は幸い戦災で被害を受けなかったが、その偉容が災いして進駐軍の宿舎としてあやうく接収されそうになった。その際、教授以下夜遅くまでかかって建物内部の図面を作成し、実験台(実際より大きく書き入れた)等の固定設備が多く、いかに米軍に不利であるかを説明して事無きを得たという。 その後、青葉山に化学教室が移転してからは化石などの保管場所として利用されており、建物の傷みが目立つのは残念である。 * 当時、旧医学専門学校の建物を使用していた大学本部は、化学教室の新築に伴って昭和9年に現在の場所に移転した。化学教室の工事は本部の移転や医専の建物の撤去と併行して行われた為、昭和8年から昭和10年春までかかった。
たてもの通信編集部 佐藤智之
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《データ》 旧東北帝国大学理学部化学教室 昭和10年竣工 設計者 文部省(東北大学営繕課) 構造 鉄筋コンクリート造 3階建 《参考文献》 「東北化学同窓会報 化学教室創立八十周年記念号」 平成4年
「東北大学五十年史」昭和35年 |
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